太田久美子ストーリー

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アメリカでの生活

結婚して家庭に入り、普通の主婦をしていたわたしは、主人のハーバードメディカルへの留学をきっかけに、家族でボストンに住んでいました。ちょうど20代後半ぐらいのときです。

その頃、マサチューセッツ州知事だったマイケル・デュカキス氏が民主党から大統領候補として出馬し、パパ・ブッシュ氏と対決していました。当時、ボストンの街中どこに行っても、みんな選挙の話をしていて、その光景に日本との違い強く感じていました。デュカキス氏は、SPを付けずに電車に乗ったり、休日に家で普通に家庭菜園をしたり、子どもたちの学校にアポ無しで現れることもあったり。

こういった風潮は今もあるかもしれませんが、当時まだ普通の人は政治の話をしてはいけないという空気が強くあったように思います。

でも近い将来、子どもも主婦も気軽に政治のことを話してもいいような、そういう時代が日本にも来ないかと感じていました。

NPO法人“KIDS”での体験

その後、しばらくして”KIDS”というNPO法人に入りました。”KIDS”は、障がいのある子どもや、養護施設の子どもの社会参加、教育の機会を提供するNPOです。常駐スタッフはおらず、全てボランティアで運営していました。

当時、子どもたちが参加を楽しみにしていたイベントが年間6つあって、私はその中の“東京ディズニーランドプロジェクト”通称“TDLプロジェクト”のコアスタッフとして関わっていました。わたしが担当していたのは、“TDLプロジェクト”に参加するお子さんの募集と参加者のデータ管理、様々な質問に答える窓口や企業の寄付物品の管理です。

“KIDS”は障がいのある子どもたちに、「一日、東京ディズニーランドで思いっきり遊んでもらいたい」というアメリカ人の創設者の願いをずっと繋いで今日まできています。

参加者には送迎バスを用意するのですが、車いすがないと生活が困難な子どもがたくさん参加していました。癌で回復の見込みが望めないお子さんにも参加いただいたことがありました。その際、ストレッチャーと酸素ボンベとドクターが付き添ったと記憶しています。当時、毎年子どもが300~400人、ボランティア600人が参加する1000人規模のイベントでした。

そんなとき、“障がい者自立支援法”というものが当時の小泉内閣から出されたのです。その影響で、毎年参加いただいてた幾つかの施設が参加を見合わせることになってしまったのです。それは、施設の子どもたちが年にたった一度だけ楽しみにしていた本当に大切なイベントでした。その際、ある施設の担当者が泣いて訴えられていて、そんな方々の姿を見ているうちに、自分でも何かできないかと思うようになりました。

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養護施設の子どもたちとの関わり

障がい者支援のプロジェクト以外に、養護施設に入っている子どもたちとも関わっていました。養護施設の子どもたちは、親の虐待を理由に自ら電話してきて入居する子も多いのです。もちろん、親が居ても大学には行けないので、最初から大学進学を諦めている子が多いのです。

養護施設の子どもたちと付き合っていると優秀な子が山ほどいるのです。次第に、その子どもたちに自分の夢を叶えられるようになってもらいたい。そんな想いが湧き上がってきました。

それから、当時“KIDS”代表だった丹野さんに助けてもらいながら”高校生プロジェクト”というものを組織の中で立ち上げたのです。最初は自分に自信がなかった子どもたちが、そこでのパイロット体験などを通じて“自分でもやれる!”という気持ちを得て巣立っていく姿に力強さを感じていました。

しかし、一旦社会に出るといろんな壁にぶつかってしまうのです。毎月、関東近郊にある養護施設出身の子どもたちを集めてヒアリングを重ねました。その結果、子どもたちは、はじめはパン屋さんやコックさん、お花屋さんになりたいという希望を持ってその道に進むのですが、その多くが半年以内に離職や転職をしてしまうことが分かりました。

ここで強く感じたのは、KIDS内で自分がいくら頑張ってもやはり限界があるということ。突き詰めて考えると、どうしても政治の力が必要なのではないかと考えるようになりました。

もっと効果的に想いを伝えるために

ちょうどそんなとき、私の息子が医学部の5年生で、民主党大学というところに入っていたのです。アメリカでの経験も大きかったと思います。ある日、息子から「お母さん、民主党大学に来ると国会議員がたくさんいるから、直接お願いごとができるよ」と教えてもらったのです。

それが、私が民主党大学に入っていくきっかけになりました。当時は今と違って選挙に出る人だけではなくて、20代の若者から70代の方まで、世の中を良くしたいという想いだけで集まった人が多く在籍していました。

しかし、養護施設の子どもたちが大学に入れるよう、その場でただお願いをするだけではなかなか聞いてもらうことができませんでした。もっと効果的に聞いてもらうためには、どうしたらいいのか。考えた結果、それなら自分で政策を書いて伝えたらいいのではないかという想いが沸き上がってきました。

やはり、自分で政策を書いたほうが相手は見てくれるし、きちんと話を聞いてくれます。それから、もっと政策を学ぶために、中央大学の大学院、公共政策研究科に入りました。

当時、わたしは普通の主婦だったわけですが“関わっていた子どもたちのために何かできる”と、ただそれだけを信じて動いていました。その後、民主党大学の先輩から政策を勉強するだけではなく、直接議員になって活動したほうが良いのではないかと提案をもらいました。

かなり悩みましたが、お世話になっていた“KIDS”代表の山本さんに相談したところ、「少しでも子どもたちのためになるよう、やってみたらどうか」と背中を押してもらい、ここではじめて議員になる決意を固めたのです。

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家族の存在と気持ちの変化

立候補を決断して家族に相談したとき、元々、政治に関心があった息子以外は、正直、反応はそれほど良くありませんでした。「わざわざこれから新しい世界に飛び込まなくても普通にお母さんしていればいいじゃないか」という意見です。普通の家庭であれば当然の反応だと思います。

でも、たくさん話をして最終的には背中を押してくれましたし、だんだんと理解して支えてくれていると感じています。家族には本当に感謝しています。主婦時代は、自分で物事を判断しなくていいので、よく人に合わせたり、一歩も二歩も引いていた感覚がありました。でも、議員になった今ではその場その場で自分で判断して、言うべきことは言わなくてはいけない。議員になる前から考えると、とても大きな変化だった気がします。

議員になって感じる課題

まだまだ足りないと思いますが、政策を作るのが好きなので、もっと現場の視察に行ったり、勉強したり行政の方たちと、多くの市民の元に入っていきたいと思っています。なぜかと言うといま、一人暮らしの高齢者が増えているからです。高齢者の方と関わるというのは、ところどころ忍耐が必要なのですが、その関わりが十分にできていない。議員だからこそ市民の中に入っていっていろんな話が聞けるし、私が議員だからこそ困っていること、悩みを訴えてくださるのだと思っています。そのきっかけづくりが、今は十分にできていない。それが課題だと感じています。

老人の方って、本当に命がかかっているのです。狛江も超高齢社会になっていますので、都営住宅でも一人暮らしの方が多くなっています。地域の交流も少なく、なかには孤独死してしまう人もいるのでとても心配です。本当になんとかしなければならない問題だと思っています。私も不定期ながらチラシを入れさせてもらうタイミングで、気になるお宅には声がけをさせてもらっていますが、もっともっと直接行って、市民のみなさんとお話しできればと思っています。私たち議員が廻って歩くだけで、そういった命を救える可能性もあるので。

もっと住民の声を聞くために

元々、子どもたちの夢を叶えさせてあげたいというのが根底にあるのですが、その場その場のボランティアではなく、障がいを持っている方々がきちんと自立して社会の中で生きていけるようにしなければならないと思います。そうでないと、両親や兄弟も安心できないですよね。そのために、その人たちの雇用をなんとかしていきたいと思っています。

さらに、地方自治って住民自治なのですが、今は住民の声をきちんと拾いきれていないことが問題なのかなと思います。そして、住民の方々にもう少し政治に関心を持ってもらえるよう、私たち議員がどんどん動いていけたらいいと思っています。

人々が元気に老後を全うできるような、“医療と看護と介護の連携がしっかりできる社会”を目標に頑張っていきたいです。

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