山本:KIDSを設立する前からお話ししますと、私は大学を卒業したあと新卒で富士ゼロックスに入社し、研究所に配属されたのが社会人スタートですね。新入社員として働きながら、実は英語を学びたかったので海外に留学することを考えていました。とはいえその間に結婚があったりとなかなか実行はできず、そうこうしているうちに富士ゼロックスの方から海外インターンの受け入れ先についての話が出たんですね。すぐに留学はできないがインターンの受け入れならできると考え、それに乗ることにしました。つまりホームステイですね。当時はまだ新婚だったんですが(笑)。
──そうだったんですね!長い付き合いですが詳しくは存じ上げませんでした。
山本:もう記憶にないくらい以前からの付き合いですよね(笑)。それで受け入れたのが、リトアニア系アメリカ人のガイラスという青年でした。彼は日本の仕事の仕方を学ぶセミナーなどをよく受けていたんですが、あるときガイラスはあるセミナーでアメリカ人のリード・メジャーという男に出会いました。
実は私はこのときすでにボランティア活動は、知的障がいの子どもたちと遊んだりするだけではあったんですがやりはじめていました。ガイラスがそういったことをリードに話していたようで、リードもしばらく日本にはいるけれどこちらでもボランティア活動をやってみたかったということで、ガイラス経由で私はリードと会うことになりました。といっても、実際に会ったのはガイラスがホームステイ期間を終えてアメリカに帰った後だったんですが。
それで確か1991年だったか、リードと一緒に神奈川県厚木市にある「愛の森学園」という福祉施設で行われた運動会に合わせて行くことになったんですね。その時はリードだけじゃなくてフランス人やイギリス人・カナダ人・ベルギー人などの友人を7〜8人連れてきてくれました。
楽しく運動会のサポートをしていたんですが、その運動会には周りの住民の方がぜんぜん来ていなかったんですね。それを気にしたリードが私に、何で近くの住民は来ていないのかと尋ねてきました。
私が「周りの住民の方は自閉症や知的障がいという症状を怖いと思っているんだ。だから来ないんだろうと思うし、こんな住宅街からは離れたところに施設をつくっているんだよ。基本的に施設は隠すものだとされているし、もし周りの住民に迷惑をかけたら追い出されちゃうから…。」と答えると、リードに激しく怒られたんですよ。「お前はバカか!?」と(苦笑)。
日本はアメリカに比べて60年くらい遅れているんじゃないのか?とも言われましたね。なんで困っている人を助けないのか、と。とりあえずその日はサポートを無事に完了したんですが、後日リードから「やっぱり何かしたほうがいいと思うんだけど」と連絡が来ました。そこで出た案が、「みんなでディズニーランドに行かないか?」というものでした。
──そんな経緯があったんですか…。しかしリードさんの発想はおもしろいですね!KIDSはそこから始まったんでしょうか。
山本:そうですね、それから本格的に活動が始まりました。でも正直何をしていいかよくわからなかったんですよね。ボランティアはどうやって集めたらいいのか?そもそも誰を連れて行く?現地まで何の乗り物を利用して行くのか?経路はどうしようか・・・など。いろいろと悩みましたね。
愛の森学園にその話をしたら「行ってみたいよね」となりました。そこで、寮母さんと一緒にディズニーランドに行ってみたんです。実際に乗り物に乗ってみて、これは危ないなとか、これなら安全だとかを実際に目で見て感じて判定しました。つまり、「東京ディズニーランド障がい者リスクマップ」のようなものをつくったんです。それで「行ける」となったんですね。
次は「誰を連れて行くか」ですが、ツテや知り合いを通じて5つの施設に辿り着きました。愛の森の学園と同じような施設や、養護学校などもありましたね。そこから行く人を募り、120人ほど選出しました。
次に問題になったのは参加してくれるボランティアの確保です。これに関してはリードがおもしろい提案をしてくれました。東京ディズニーランドのスポンサー企業に来てもらうよう掛け合ってみるのはどうだと言うんですね。実にアメリカ人らしい発想です。
とりあえずスポンサー企業にかたっぱしから連絡してみました。アポが取れたところには私が行ったり、日本語を話せるリードの友人の外国人に行ってもらったりして少しずつ広げていったんですね。最初に返答をくれたのは日本コカコーラ社でした。彼らはなんとチケットを80枚も用意してくれました。次に日本交通さんですが、バスを用意してくれて、確か金額も半額くらいにしてもらうことができました。その他にも各社協賛金などで協力をしてくれ、お金の部分はなんとか目処がつきはじめました。
これが立ち上げるきっかけと設立に至る歴史ですね。
太田議員と山本さんの出会いは?
山本:今から15年ぐらい前からかな?その頃から破天荒で、個性の代表格みたいな人でした。自分のやりたいことを突き進んでやるイメージですね。周りがどう思っているかは全く気にしていないのでしょう。太田さんが議員になるという話を聞いたときはすこし驚きましたが、なかなかの鈍感力を持つ太田さんは議員に向いているのかもしれないとは思いましたね。あっ、私が言う「鈍感力」とは、どんな時もくよくよしないで、へこたれずに、物事を前向きに捉えていく力のことですよ(笑)。
──私は当時から一方的に信頼していましたよ(笑)。でもそれに拍車をかけたのはKIDSなんです!KIDSって、“Knowing Is Doing Something”の略称ですよね。議員になってからも「行動すればわかる!」というKIDSの精神にとても影響を受けているんです。
山本:そうだったんですか!それは知らなかったですよ。
KIDSは休まずずっと続けられているのですか?
山本:KIDSの運営は基本土日です。毎年6月の第1金曜日には東京ディズニーランドにも行っていますよ。今年で23年目になりますね。でも実は、2回中止しているんですよ。1度目は新型インフルエンザの流行。元々は決行予定だったんですが、2週間前に中止せざるを得なくなりました。何よりも子どもたちの健康を考えなければなりませんからね。そして2度目は東日本大震災です。これは中止というよりは延期で、2011年11月に行きました。同年内には行っているんですが、会計期間の関係で2回延期したことになっていますね。
──初めてディズニーランドに行った子どもたちは、山本さんからはどう見えましたか?
山本:1年目に遡ってお話しさせていただくと、パレードのときにミッキーたちが子どもたちの手を引いて一緒に踊っていた姿を見て、心が暖まる?経験をしました。これは今でも忘れられない感覚ですね。
この企画を始めて、施設に子どもたちやボランティアを集めてから東京ディズニーランドに直接向かうやり方を当初取っていたんですが、家に直接迎えにいってもいいんじゃないかと思ったことがありました。
その時に感じたのは、施設自体はKIDSに関する安心感があるが、一般家庭にはKIDSの名前が知られていないということ。親御さんから医者や看護師はバスにいるのかと聞かれ、いないと言うと参加を断られたこともありました。しかし、ディズニーランドには医務室もあるし、近くに病院もある。そういった事をきちんと説明すると参加を承諾してくれたのは嬉しかったですね。
実は、ディズニーランドに行った3ヶ月後にその子は亡くなったんです。その子のアルバムの一番上にはミッキーと一緒に写った写真が残っていて、この時は本当にやっててよかったなと思いました。
政治ができること、個人ができること
──私は2005年に障がい者自立支援法が制定されたのを機に、福祉を変えるには政治の力が必要なんだと分かり政治家になったという経緯があります。山本さんはNPOをされていて、助けが必要だなと思う事は何かありますか?
山本:NPOをやっていて感じることは、NPOの認定を取ることの意味ですね。私どものKIDSは常駐のスタッフがいない組織なので、なかなか定期的なレポートを出すのが難しいのですが、そうなると認定が取れないんですね。ここに関していいスキームがあればいいなと思います。
とはいえ障がい者を守る仕組みは随分良くなってきました。ただやはり問題は、子どもたちの出口がなさすぎることではないでしょうか。スワンベーカリー(http://www.swanbakery.co.jp/swan/index.html)のような例があるにはあるが、現実問題として出口が圧倒的に少なすぎますね。これでは自立ができないし、そもそも何をもって自立していると取るのかもはっきりしていません。
例えば自閉症の子どもたちは、同じことを繰り返すルーチンワークが非常に得意なんですね。それを逆手に取って、機械でするにはお金がかかり過ぎてしまうような仕事をする部門に配置することで、彼らは才能を発揮することができます。
出口がないということは、子どもたちを守るために社会的コストはどんどん上がっていきます。ですから出口を増やす事が重要なのではないでしょうか?
──課題があって、それを解決するにはやはり政治の力が必要になってくる段階があると思います。私が議員をしている狛江市というコンパクトな市を見るにあたって、そういった熱い思いをぶつける必要があることは感じています。
障がいのあるお子さんをお持ちの親御さんは、やはり自立してくれるかどうかが気がかりなんですね。そこで安心できないと死んでも死に切れないとおっしゃいます。親御さんが一生面倒を見なければならないという状況をどうにかしないといけません。
先ほどの自閉症の話に近いかもしれませんが、彼らは小型家電の分解をとてもよろこんでやってくれるんですね。こういった分解作業には期限を設けていないことが多いので、空いている時間で作業ができることから向いている仕事かと思います。ただ、賃金的なところで、安すぎるところが問題点かなと感じています。普通に人が生活できる水準の賃金を確保するにはどうしたらいいのでしょうか?
山本:都市鉱山は大きなマーケットになるんじゃないかと思いますね。家電、PC、携帯などであれば取れる解体後に得られるレアメタルの量も多いので、結果得られる給与も多くなっていくのではないでしょうか。レアメタル戦争とまで言われている業界ではありますが、パブリックセクターが絡む形で特殊法人をつくり、胴元モデルの仕組みを半分パブリックでつくれれば形になりそうです。
根本的にそもそも日本人のマインドとして、革新というものは起きにくい。ですので、半分パブリックくらいがちょうどいいのかもしれません。パブリックの部分を国がやるのか市がやるのかはわかりませんが。
今後もっと充実させないといけないのが介護のようなサービスや、農業などの一次産業ですよね。とはいえ元気な高齢者もまだまだ多く、定年退職後に時間を持て余している。中には高い技術を持った方もいらっしゃいます。ですので、こういった定年退職した高齢者の方と障がいのある方をマッチングサービスで結びつけるのは効果がありそうですね。
なんにせよ、日本は社会コストが高すぎます。うまい死に方ができるのが一番いいですし、現在のような貨幣経済は半分程度にまで減らした方がいいのではないでしょうか。といっても実は、それは昔の仕組みに戻るだけです。肩をもんだら人参が貰えるとか、エコポイントとか地域通貨というブームが以前にもおきましたが、そういった流れがまたやってくるかもしれません。
まだ地方にはそういった貨幣経済以外の経済が残っているので、日本各地の過疎化した地域の活性化にはこういった従来のモデルに意識的に戻していくのはどうでしょうか。
現代はひとりの肩に何人もの人が乗っからないと成り立たない時代です。このままでは破綻するのは目に見えています。局地的にでも、ここでは日本円が使えないという地域をつくればいいかもしれません。貨幣経済がなりたたない社会を一部から進めていくのが、地道ですが確実な方法ではないでしょうか。
──詳しくありがとうございます。政治家をはじめ、やはり人はなかなか既成概念から抜け出せないものですので、山本さんのように奇抜な発想を出せる人はあまりいないんです。私自身とても勉強になりました。本日はありがとうございました。